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히노 토시모토(日野俊基)경 비석
鎌倉時代後期の公家で、後醍醐(ごだいご)天皇の側近であった日野俊基(ひの よしもと)の墓。日野は、名門の出ではなかったものの、学問に優れていたため後醍醐天皇の信頼を得、後醍醐天皇の命を受けて、当時の荒廃した幕府を倒幕し、天皇親政の復活を目指しました。酒席に美女をはべらせ,幕府の目をくらませつつ、討幕の謀略を重ねていたが、密告により計画がバレて捕らえられるも処罰は免れましたが、再び倒幕計画を企てたことで再び捕らえられ、当時処刑場となっていたこの地、葛原ヶ岡で処刑されました。それは、鎌倉幕府滅亡の僅か1年前のことでした。そのため鎌倉幕府倒幕の先駆者と言われる人です。 Googleマップで見る 日野俊基卿についてもっと知りたい
츠키카게 지장보살(Tsukikage Jizo)
もとは現在地のさらに奥の谷である月影ヶ谷(つきかげがやつ)の鎌倉後期の女流歌人で青春時代に失恋し出家した阿仏尼(あぶつに)邸にあった地蔵像をこの地に移したのでこの名があると伝えられています。 この地蔵さまには以下の伝説があります。『昔々このあたりに北条業時(なりとき)の御所に仕える母娘がいました。母親は気性も荒く心によこしまなところがありましたが、露という娘は気立てもよく親思いの娘でした。あるとき井戸端で母親が高価な白磁のお皿を割ってしまいます。母親が疑われると露は自分が割ったと申し出ました。やむを得ず業時は親子に暇を出します。その時になって母親は自分の罪を白状したのですが、既に遅し、母親は追放に。業時は露の預け先を探し、屋敷を出る時「梅小紋の小袖」を露に与えます。でも、性悪の母親はそれを奪いどこかへ流れて行きました。露を預かった屋敷では大切に遇してくれましたが、露は母親と別れた悲しみに沈みます。まもなく病に倒れ、幼くして逝ってしまいました。辺りの人々はこれを哀れみ、この子の生まれた月影の谷戸に小さな墓をたてます。いつしかその墓に「梅の木苔」がびっしりと生えました。人々は一度も袖を通すことがなかった幸薄い子のために、梅小紋の苔衣を着せたのは、きっと月影地蔵の情けに違いないと噂したのでした』(露童女の苔衣伝説より) Googleマップで見る 月影地蔵についてもっと知りたい